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よみがえる笑顔、よみがえる響き
7月6日からPMFアカデミー生が到着!
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いよいよ7月6日からアカデミー生たちが順次到着します!ウィズコロナで通常開催する初のPMFに参加するオーケストラ・アカデミーは世界21ヵ国・地域出身の52人。平均年齢23.9歳の音楽家の卵たちは、この夏、PMFで学び、向上心を響かせ、ともに音楽を奏でます。
レナード・バーンスタイン(1918-1990)が人生の最期に、ありったけの情熱を注いで創った国際教育音楽祭PMF。よみがえる笑顔、よみがえる響きで“情熱の系譜”に加わる32期のPMFアカデミー生にあたたかい応援をよろしくお願いします!
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音楽の素晴らしさ、平和の尊さを知る
音楽家を育てたい。
今だから、国際教育音楽祭PMFができることを。
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オフィシャル・サポートは、 PMFで学ぶアカデミー生の ための教育資金を個人の皆様から 1口1,000円で募る寄付金です。
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目標金額は200万円
PMF2022の開催費用を募っています。
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7月11日(月)23:00まで
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READYFOR(レディーフォー)で好評受付中!
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PMF2022のオープニングを飾る
客演指揮者マズア氏からのメッセージ
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今回がPMF初参加となる客演指揮者のケン=デイヴィッド・マズア。父は1989年10月9日にライプツィヒで起こった民主化を要求する7万人の「月曜デモ」を無血で終わらせる奇跡に大きな影響を与え、ドイツ統一に貢献した指揮者のクルト・マズアです。
偉大な父と同じように、音楽と平和を愛したバーンスタインのPMFに参加する今の気持ちを語っていただきました。動画でお届けします(1分26秒)。
世界の若手音楽家で3年ぶりに結成するPMFオーケストラの最初の演奏を引き出し、32回目の幕開けを告げるケン=デイヴィッド・マズア指揮のオープニング・コンサートをどうぞお楽しみに!
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PMFと音楽でつながる“情報の定期便”をコンセプトに、2014年11月から月に一度のペースで配信しているミュージック・パートナー。
昨年の夏からは「四季の連載企画」として、35年間で101ヵ国2,500人以上の偉人を墓参している文芸研究家で墓マイラーのカジポン・マルコ・残月さんとバーンスタイン、マーラー、クリムト、シューベルトの波乱万丈の人生を紹介しました。
独自の経験と視点から音楽家たちの生涯に迫るカジポンさんのエッセイは、毎回おもしろくて新鮮。ご好評につき「音楽の夏」の始まりとともに「シーズン2」のスタートです!
第1回はメンデルスゾーンをフィーチャー。また、本コーナーの最後では、音楽評論家ではないカジポンさんに曲目解説に挑戦していただきました。
PMF2022オープニング・コンサート(プログラムA)のメインであり、32年の歴史でPMFオーケストラが初めて演奏する「宗教改革」は、ケン=デイヴィッド・マズア氏がアカデミー生の音楽教育のために選曲したものですが、新型コロナを機に様々なトランスフォーメーション(変容)を経験した聴き手の私たちにも勇気と希望を与えるタイムリーな作品かもしれません!
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ドイツ・ロマン派の作曲家、指揮者、ピアニスト
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この夏、PMFオーケストラは7月16日のオープニング・コンサートでメンデルスゾーン《交響曲第5番“宗教改革”》を演奏する。
洗練された多くの美しい音楽を生み、指揮者としても活躍したロマン派の旗手フェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディ。彼は1809年に北ドイツ・ハンブルクの裕福なユダヤ系銀行家の子に生まれた。すらりとした体格で、柔らかな顔立ちと優美な物腰、陽気な性格で周囲に愛され、両親は息子にあらゆる貴族的教養を身につけさせた。朝5時から勉強が始まり、フランス語、英語、イタリア語、ギリシャ語、ラテン語をマスターした。美術や乗馬の家庭教師がつき、剣術や絵画の腕はプロ並みだった。
彼は9歳でピアニストとしてデビューすると神童と呼ばれ、バッハの孫弟子から作曲の指導を受けた。1824年、54歳のベートーヴェンがウィーンで《第九》を初演したこの年、メンデルスゾーンは15歳で《交響曲第1番》を作曲。既に室内楽や歌曲など100曲以上を生み出しており、新たに雇われた音楽の家庭教師は「生徒に教えるつもりでやって来たが、既に成熟した芸術家がそこにいた。あまりの才能に呆然とした」と驚愕した。
1829年は20歳の彼にとって大きな転機となった。ベルリンで自らの指揮によりバッハの《マタイ受難曲》を約100年ぶりに復活上演し、大成功を収めたのだ。彼は14歳のクリスマスに祖母からこの曲のスコアを贈られ、深く魅了されていた。バッハは今でこそ“音楽の父”と崇敬されているが、当時は忘れられた音楽家だった。《マタイ受難曲》をバッハの死後初めて演奏し、バッハ再評価のきっかけを作ったメンデルスゾーンは若くして名声を掴んだ。
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第二の転機は1835年、26歳のときに訪れた。ライプツィヒで世界最古の民間オーケストラ、ゲヴァントハウス管弦楽団(創立1743年)の5代目指揮者に就任し、大きな変化を音楽史に起こした。それまでの演奏会は作曲家の自作自演が基本で、その作曲家が没すると作品も演奏されなくなった。ベートーヴェンの《第九》でさえ、ワーグナーが熱心にリバイバルしなければ普及しなかった。メンデルスゾーンは“名曲コンサート”をシリーズ化し、バッハ、ヘンデルなど古典の傑作を世に知らしめ、聴衆に「名曲」「クラシック」という概念を与えた。そして年20回の定期演奏会を通して楽団を育成し、組織運営では楽団員の社会保障拡充に取り組んだ。彼は楽団の水準を大いに引き上げ、世界屈指のオーケストラに成長させた。メンデルスゾーンは、指揮の際に“指揮棒”を使った最初期の一人としても知られる。ベルリオーズはメンデルスゾーンの指揮を称賛して指揮棒を交換し、こう記した。「大いなる神秘が我らを魂の大地へ狩りに向かわせる時、このトマホーク(戦闘斧)を共に手にせんことを」。
メンデルスゾーンは後進の育成にも熱心で、34歳のときに自ら設立資金を集めてライプツィヒ音楽院を開校した。自身が院長とピアノ・作曲科の教授を担ったほか、教授陣にシューマンら著名な音楽家が結集する。翌年、過労から体調を崩しつつも、仕事の合間を縫って代表曲のひとつとなる《ヴァイオリン協奏曲ホ短調》を作曲した。
1847年、体力的な限界と作曲に専念するため、ゲヴァントハウスの音楽監督を3月に辞任。5月に女性作曲家の先駆けでもあった姉ファニーが脳卒中で倒れて42歳で急逝し、彼は悲嘆の余り神経障害を起こす。10月9日、メンデルスゾーンはライプツィヒで姉の遺稿を整理している最中に同じく脳卒中で倒れ、11月4日に38歳で他界した。最期の言葉は「疲れたよ、ひどく疲れた」。生涯に約750曲もの作品を遺す。3日後の葬儀には1000人以上が参列し、自宅から教会に向かう葬列の先頭をシューマンら音楽家仲間が歩き、故人の無言歌集から《葬送行進曲》が演奏された。
没後も、心に残るエピソードが続く。他界の7年後、シューマン夫妻に末子が生まれ、フェリックスと名付けられた。1858年には英国女王の娘ヴィクトリア妃とドイツ皇帝フリードリヒ3世の結婚式典で《結婚行進曲》(「夏の夜の夢」から)が演奏され、以後は結婚式の定番曲となった。1933年、ナチスはメンデルスゾーンらユダヤ人作曲家の公演をすべて禁じ、1936年にはナチス将校がゲヴァントハウス前のメンデルスゾーン像を引き降ろしてスクラップにした。ライプツィヒ市長は抗議のうえ辞職してヒトラー暗殺計画に加わるも失敗、死刑となっている。2008年、ゲヴァントハウス前に72年ぶりにメンデルスゾーン像が再建された。
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墓巡礼
初めて墓参りをしたのは1994年。ベルリン中央駅の観光案内所でお墓の場所を尋ねた。地下鉄で墓地に着いたのが17時。「閉門時間20時」の看板を見て、3時間もあれば見つかるだろうと門をくぐった。ところが2時間経っても見つからず、さらに天気が崩れてドシャ降りに。閉門まで5分を切り、諦めかけた瞬間、巨大な黒い墓に金文字で「MENDELSSOHN」と彫ってあるのが見えた。やった!会えた!ちょうど小雨になり、大急ぎでカメラを出してタイマーをセット、憧れのメンデルスゾーンとの対面に感極まる姿を収めた。ネットもデジカメもない時代、ヒーローとの紙焼きツーショット写真は一生の宝物だった。
その5年後、1999年にホームページを開設し、メンデルスゾーンの墓参写真をアップしたところ、ベルリン在住の方から衝撃的なメールが届いた。「喜んでいる姿を見て言いにくいのですが、あれは銀行家のメンデルスゾーンで、別人です」。写真を確認するとフェリックス・メンデルスゾーンではなく、フランツ・メンデルスゾーンだった。
「一刻も早く再びドイツを訪れ、再巡礼しなければならない」。それからの僕は旅費を貯めることに全力を集中、雨のベルリンから8年後の2002年、今度こそ“三位一体墓地”でフェリックス本人の墓前に立つことができた。何の装飾もない小さな十字架で、向かって右側には彼が誰よりも慕っていた姉のファニー、左側には7歳で早逝した三男が眠っていた。生前、彼は死について手紙にこう記していた。「そこにはまだ音楽があって、悲しみや別れがこれ以上なければいいですね」。念願の墓参を終え、胸いっぱいで帰国すると、海外からメールが立て続けに届いた。「ハイドンのお墓の写真、あれは弟の墓です」「ブルックナーの墓写真ですが、あれは記念碑で本当の墓は地下にあります」。墓巡礼は一日にして成らず!
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1967年大阪府生まれ。文芸研究家にして「墓マイラー」の名付け親。ゴッホ、ベートーヴェン、チャップリンほか101ヵ国2,520人に墓参している。信念は「人間は民族や文化が違っても相違点より共通点の方がはるかに多い」。
日本経済新聞、音楽の友、月刊石材などで執筆活動を行う。最新刊は「墓マイラー・カジポンの世界音楽家巡礼記」(音楽之友社)、NHKラジオ深夜便「深夜便ぶんか部 世界偉人伝」にレギュラーゲストとして出演中。コロナ禍になってからは海外の墓参は休止に。札幌のバーンスタイン像にリアル巡礼する日を楽しみにしているという。
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1830年、メンデルスゾーンが21歳のときの作品。事実上の交響曲第2番にあたるが、楽譜の出版が遅れたため第5番とされた。
バッハもメンデルスゾーンもプロテスタントであり、前年にバッハ《マタイ受難曲》の復活公演を実現させた彼は、宗教改革三百年祭のための作品を委嘱されて《交響曲第5番“宗教改革”》を書きあげた。標題の“宗教改革”に象徴されるように、プロテスタントの栄光をうたうものとなっている。第1楽章はカトリック教会の讃美歌で始まり、終楽章はマルティン・ルターが作詞作曲したプロテスタントのコラール(讃美歌)で終わる。
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メンデルスゾーンの《交響曲第5番“宗教改革”》にはルターが作曲したコラール(讃美歌)が終楽章に登場。ルターの墓はドイツのヴィッテンベルク城教会の中。歴史を変えた偉人とは思えない小さな墓だ。
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第1楽章
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地の底から湧き上がるような厳かな調べで始まり、中世カトリックの巡礼団が聖地への道を歩む光景が目に浮かぶ。やがてカトリックの讃美歌「ドレスデン・アーメン」の上昇する6つの音符が奏でられ、力強く展開していく。
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第2楽章
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軽快に弦が飛び跳ね、宗教改革の記念祭を祝い踊る人々の素朴な喜びを描いた楽しい世界。
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第3楽章
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約3分半の短い楽章だが、非常に美しい愛すべき54小節。叙情的で胸に迫る旋律をヴァイオリンが奏でる。
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第4楽章
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冒頭でルターが書いたコラール(讃美歌)「神はわがやぐら」の旋律をフルートが歌う。このコラールは「宗教改革の戦いの讃美歌」とも言われ不屈の精神をあらわす。曲は生き生きと行進曲風に発展し、フィナーレで再びプロテスタントの法悦を象徴するように全楽器が高らかにコラールを歌いあげ全曲を締めくくる。聴いている自分の身体が輝きに包まれていくようだ。
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今夏、21歳という若いメンデルスゾーンが書きあげた名曲を、バーンスタインの遺伝子を受け継いだ情熱的なPMFの若者たちが演奏!作曲者と演奏者、若き魂の出会いがどんな化学反応を起こすのか楽しみですね!
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