コンセプトは「シンプルかつ明瞭」 |
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お待たせしました。「PMFフレンズ」の募集案内です。 |
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PMF2022 フレンズ会員特典 |
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今後のスケジュール(予定) |
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例年、札幌では初夏の訪れとともに、街中に様々なイベントのフラッグや懸垂幕が掲出されます。 |
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季節は春。文芸研究家で墓マイラーのカジポン・マルコ・残月さんによる「人生に参拝!」に4つ目のシーズンが到来しました。 |
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オーストリアの作曲家 |
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フランツ・シューベルトほど友人たちに愛された音楽家はいないだろう。600以上の歌曲を遺した“歌曲王”シューベルトは、バッハやモーツァルトと異なり生涯宮廷に縁がなく、ベートーヴェンのように貴族のパトロン(後援者)もいなかったが、代わりに多くの友人たちが音楽活動を支えてくれた。19歳から他界するまで住所不定のまま友人の家を泊まり歩き、亡くなったときは所持品すべてを売っても埋葬費用の5分の1に満たなかったという元祖ボヘミアンだ。シューベルトは1797年1月31日、オーストリア・ウィーンで生まれた。当時ベートーヴェンは27歳、モーツァルトは6年前に没している。彼は11歳のときに宮廷礼拝堂の聖歌隊員となり、宮廷歌手の養成学校に進み、宮廷楽長アントニオ・サリエリ(映画『アマデウス』で有名)から作曲を学んだ。 14歳から歌曲を書き始め、16歳で《交響曲第1番》を作曲しており、その楽才に気づいた同級生らは、貧しい彼を助けるために自分達の小銭を持ち寄って五線紙を提供するなど、熱心に創作活動を応援した。シューベルトは17歳で小学校の教師になる一方で作曲を続け、音楽の才能が完全に開花した18歳のときに、《魔王》《野ばら》など146曲もの歌曲を1年間で作曲し、1日で8曲を書いた日もあった。ある日、シューベルトはレストランで仲間と食事中に突然歌曲の旋律が浮かび、素早くメニューの裏に音符を書き記した。後日、友人がその曲を歌うと、シューベルトは「良い歌じゃないか。それは誰の歌?」とレストランの一件を忘却していたという。 19歳のときには友人から「教職を辞めて作曲活動に専念するべき」と助言され、居候のための部屋を用意してもらえたことから、教師生活に別れを告げた。この年は《交響曲第4番》と《第5番》、約100曲の歌曲も書かれている。シューベルトには収入がなかったが、周囲には多くの芸術家や音楽愛好者が集まり、新作を聴くための夜会“シューベルティアーデ(シューベルト・サークル)”が催された。25歳で代表作のひとつとなる《交響曲第7番「未完成」》を作曲。第2楽章までしかないため“未完成”とされているが、その比類なき美しさから2つの楽章をもって完璧な作品となっている(シューベルト本人も“これで良し”とペンを置いたのかも知れない)。27歳の頃から病気がちになり、将来に悲観的になって全楽章が短調という《弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」》を作曲している。 |
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1827年、30歳になった彼は《菩提樹》を含む失恋歌曲集《冬の旅》を完成させる。本作の作曲中、ベートーヴェンが56歳で他界した。病床のベートーヴェンはシューベルトの歌曲集《美しき水車小屋の娘》を好んで口ずさんだという。シューベルトはこの音楽界の巨人を心から崇拝し、街角で姿を見かけるとこっそり後をついて歩いた。17歳のときにベートーヴェンのオペラ《フィデリオ》のウィーン公演を観るため、教科書を売り払ってまでチケット代をやりくりして足を運んでいる。ベートーヴェンが死の前年に書いた《弦楽四重奏曲第14番》を聴いたシューベルトは「この後で我々に何が書けるというのだ?」と圧倒された。彼はお見舞いのためにベートーヴェンの家を友人と訪れたが、あまりの緊張で何も喋れなかったという。ベートーヴェンの葬列ではたいまつを持つ役を引き受け、棺の横を行進した。葬儀の後、友人たちと訪れた酒場で「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとり、友人たちは不吉な予感にとらわれた。死は翌年に迫っていた。 1828年、シューベルトはベートーヴェンの一周忌にあたる3月26日に、生涯でただ一度となるコンサート(弦楽四重奏曲など室内楽)を楽友協会ホールで催した。この人生最後の年も創作欲は尽きず、体調の悪化に抗うように《交響曲第8番「グレート」》など多数の傑作が書かれた。他界2ヵ月前には最後のピアノソナタとなった《ピアノソナタ第21番》を書き、第二楽章はあの世に向かう舟歌とも例えられ、深遠な精神美に到達している。感染症で急激に衰弱した彼は同年11月12日、親友に宛てた手紙に「僕は病気だ。11日間、何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と苦しみを訴え、これが最後の手紙となった。高熱に浮かされ「ここにはもうベートーヴェンがいない」と嘆き、1週間後の11月19日午後3時、兄の家でわずか31年の生涯を終えた。最後の言葉は「これが、僕の最期だ」。最晩年に書かれた未発表の14の歌曲は、残された借金返済の足しにするため《白鳥の歌》と題され出版された。現存する楽譜では14曲の交響曲の作曲を試み、6曲が未完成となっていることが判っているが、自作の交響曲が演奏されるのを一度も聴くこともなく生命の糸が切れた。 墓巡礼を続ける中で最も胸を打たれることのひとつは、墓を通して故人が周囲からどれほど愛されていたかを知ることだ。シューベルトの遺言は「ベートーヴェンの側で眠りたい」だった。この遺言を実現するため兄や友人たちが奔走した。当時のウィーン市民は家の近所の教会に埋葬されたが、友人たちはシューベルトの葬儀を、わざわざベートーヴェンが眠る地区の教会で行うなど、同じヴェーリング墓地に墓を造るために尽力した。様々な努力が実り、なんとかベートーヴェンのお墓の3つ隣りに埋葬することができた(ちなみにメトロノーム型のベートーヴェンの墓をデザインしたのはシューベルトの兄)。その半世紀後、都市開発によって墓地が閉鎖され、郊外のウィーン中央墓地にベートーヴェンとシューベルトの墓が移されることになった。 シューベルトのファンは「今度こそ真横に墓を造る絶好のチャンス」と色めき立ち、ついにベートーヴェンの右隣りにシューベルトの墓が造られた。シューベルトのさらに右隣にはヨハン・シュトラウス2世、そしてブラームスが眠っている。改葬のためシューベルトの遺骨が掘り起こされたとき、その場に立ち会った作曲家ブルックナーは、感極まって頭蓋骨に接吻したという。最初の墓地は公園として整備されたが、シューベルトを愛する人々が「古い方の墓も残そう」と保存運動を展開し、公園の一角にベートーヴェンの墓石と共に残された。知名度からいえば、ベートーヴェンが圧倒的に上だが、現在この地はベートーヴェン公園ではなく『シューベルト公園』と呼ばれており、その事実からもファンがどれほど熱い想いで運動したかが分かる。生涯は短くとも、音楽でこの世界を豊かにし、未来の人間にまで幸せを与えた。 |
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1967年大阪府生まれ。文芸研究家にして「墓マイラー」の名付け親。ゴッホ、ベートーヴェン、チャップリンほか101ヵ国2,520人に墓参している。信念は「人間は民族や文化が違っても相違点より共通点の方がはるかに多い」。 |
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