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PMF Connects LIVE! スプリングコンサート
PMFクラシックLABO♪ 音楽を旅する イタリア編
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ミュージック・パートナーは創刊8年目に入りました。読者の皆様、今年もどうぞよろしくお願いします。
新年最初のトピックは、久しぶりにホールで開催するコンサートとイベントのご案内です。修了生ユニットによる本格的なチェンバーと情熱の国イタリアがテーマの音楽講座。“コネクツ”は、残念ながら中止となったPMF2021のコンサートに出演予定だったメンバーたちが、Kitaraに再集結するアンサンブル演奏会です。また、第1回の「オーケストラのひみつ」が大好評だった“ラボ”は、今回から「旅シリーズ」がスタート。ますます面白くなりますよ。
どちらも気軽に楽しめる内容と料金にしました。チケットは明日発売です。ぜひ会場に足をお運びください!
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PMFの主旋律“音楽と平和”と共鳴する
映画「クレッシェンド 音楽の架け橋」のご紹介
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2022年も予測不能なVUCA(ブーカ)の時代を生きる私たち。世界が、世間が「変われ」と言っているのかもしれません。だからこそ、私たちは「変わらないもの」に心惹かれてしまうのでしょう。これまで幾度となく疫病や戦禍をくぐり抜け、何世紀も生き続けるクラシック音楽。変わらないものには力があります。
今回は、時を超えても変わらない“音楽の力”を感じることができる話題作「クレッシェンド 音楽の架け橋」をご紹介します。
モデルとなったのは、巨匠バレンボイムが1999年にパレスチナ系の文学者エドワード・サイードと設立したウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団。映画は、オーディションに始まり、和平コンサートが迫る21日間の波乱の合宿を描いています。激しく憎しみをぶつけ合うイスラエルとパレスチナの若者たち。マエストロのタクトに導かれ、あらゆる障害を乗り越えたオーケストラがラストで奏でる“魂の協奏”は、一生の心の宝物になるかもしれません!
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作品タイトルの「クレッシェンド」とは「だんだん強く」を意味する音楽用語。音楽を通じて人と人との間に芽生えた小さな共振が、やがて強く大きく世界中に響きわたっていく。そんな祈りのメッセージが込められています。
時や場所、登場人物などは違っても、PMFもクレッシェンドも共通する主旋律は“音楽と平和”です。PMFファンにとっては、映画「クレッシェンド 音楽の架け橋」を通じて音楽の素晴らしさ、国際教育音楽祭PMFの存在意義や価値などを改めて考える良い機会になりそうです。
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公式サイトで予告編やレビュー、劇場情報などをチェックできます!
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昨夏から始まった四季の連載企画「人生に参拝!」は早くも3回目。冬号は「番外編」をお届けします。文芸研究家で墓マイラーのカジポン・マルコ・残月さんが選んだ偉人は、音楽家ではなく、画家のグスタフ・クリムトです。
浮世絵や琳派(りんぱ)などジャポニズムの影響を受けた「黄金様式」で自身の「黄金時代」を築いたクリムトも世紀末という不安定な時代で苦悩し、ウィーンの伝統に立ち向かい、苦境の中でも独自の表現を貫いた芸術家でした。
音楽にまつわるエピソードも多く、前回登場した作曲家マーラーとは意外な関係が。それでは“愛と官能の画家”と言われるクリムトの人生を一緒に訪ねてみましょう!
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帝政オーストリアの画家
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2022年はグスタフ・クリムトの生誕160年。クリムトは金箔を多用した華麗な画風で知られるが、作曲家マーラー(1860-1911)と同時代のウィーンを生きた人物であり、音楽に関するエピソードも多い。
クリムトは1862年にオーストリア帝国の首都ウィーン近郊に生まれた。父は金細工師。14歳で工芸美術学校(現ウィーン工科大学)に入学し、貧しい生活を送りながら7年間学ぶ。卒業後に弟や友人と開業した工房は好評で、劇場や美術館の天井画など次々と仕事の依頼が来たが、30歳のときに弟が病死、打ちひしがれて工房を解散した。
この頃、19世紀末のイギリスやフランスでは流れるような曲線を装飾に多用した芸術運動“アール・ヌーボー(新しい芸術)”が注目を集め始める。1897年、保守的なウィーン美術家協会に反発した芸術家40名が、歴史画や古典芸術からの分離を目指して『ウィーン分離派(ゼツェッシオン)』を結成、35歳のクリムトが初代会長を務めた。
同年、クリムトは著名な風景画家の娘で社交界の花形だった17歳のアルマ・シントラー(1879-1964)に夢中になる。彼女はピアノも上手く、いつも男性に囲まれていた。クリムトはアルマの保養先イタリアまで追いかけ、情熱を込めて恋人になってほしいと懇願した。彼はアルマのファーストキスを奪うことは出来たが、アルマの父親はクリムトが複数のモデルと関係を持っていることを問題視し、2人の接近を許さなかった。この5年後、アルマは約20歳も年上のマーラーと結婚した。
1898年、ウィーン分離派は最新の芸術を紹介することを目的に、仏のロダンなど外国の芸術家も参加可能な『第1回分離派展』を開催。翌年、シューベルト(1797-1828)の音楽を特に好んでいたクリムトは《ピアノを弾くシューベルト》を描き、約70年前に世を去った若き歌曲王を甦らせた。本作は実際に目の前にいるシューベルトを描いたのではないかと思えるほど臨場感に富む絵だが、第二次世界大戦末期に十数点のクリムト作品が保管されていた城をナチスが焼き討ちしたため灰になり、写真でしか残っていない。
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20世紀の幕が開けた1901年、39歳のクリムトは金箔と油彩を使い、新境地を切り開く。翌年の第14回分離派展はベートーヴェンに捧げられた記念展となった。クリムトは同展に合わせて巨大壁画《ベートーヴェン・フリーズ》を制作。この壁画はリヒャルト・ワーグナーの目を通して見た交響曲第9番であり、展示会場のカタログにはこう記された。「芸術は我々を理想の王国へと導く。我々はそこで純粋な喜び、純粋な幸福、そして純粋な愛に出会うのである」。公開初日に、マーラーが楽団を率いて自らが編曲した金管版の《歓喜の歌》を指揮・演奏し、会場を盛り上げた。
クリムトはマーラーと2歳差で年が近く、名前も同じ“グスタフ”、アルマ夫人との縁もあって交流を深めていたが、1907年、マーラーはユダヤ人差別の迫害を受け、宮廷歌劇場の芸術監督を辞した。クリムト、作家ツヴァイク、詩人ホフマンスタールらがマーラーを守るため署名を集めたが状況は変わらず、マーラーはニューヨークのメトロポリタン歌劇場の招待を受け入れ渡米を決めた。
12月の寒い朝、クリムトはウィーン南駅から旅立つマーラー夫妻を見送った。駅には作曲家シェーンベルク、ウェーベルン、ベルクなどウィーンの心ある文化人が集まった。汽車が出発するとクリムトは一言「去ったのだ」とつぶやき、マーラーに象徴される芸術文化の革新者を受け入れないウィーンを嘆いた。この年、画家志望の1人の青年がウィーン美術アカデミーの受験に失敗している。男の名はアドルフ・ヒトラー。彼は翌年も受験したが再び試験に落ちた。合格していれば大戦の悲劇は起きなかったかもしれない。
クリムトは46歳で美術史上の傑作《接吻》を完成させる。金色の輝きの中でひとつに溶け合う崖の上の男女が描かれ、モデルはクリムト自身と恋人エミーリエ・フレーゲとされる。《接吻》は発表と同時に絶賛され、オーストリア政府の買い上げとなった。
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1918年の年明けにクリムトは脳梗塞の発作を起こし、インフルエンザにも感染する。3週間後、症状が悪化して肺炎を併発し、2月6日に55歳で病没した。最期の言葉は側に恋人を求めた「エミーリエを呼んでくれ」。世界は新型インフルエンザのスペイン風邪が猛威をふるい、パンデミックが始まっていた。スペイン風邪による3年間の死者は、推計で最大1億人以上に達したという。
僕が初めてクリムトを墓参したのは1994年。墓の造形はマーラーの墓をデザインした建築家ヨーゼフ・ホフマンの手によるもので、シンプルな四角い墓石に、ウィーン分離派特有の美しい字体で名前だけが掘られていた。墓石の両側には寄り添うように小さな白樺が植えられており、クリムトの風景画の代表作《白樺の林》が思い起こされた。昼下がりの明るい陽射しのもと、しばしクリムトと時を過ごし作品の感想を伝えた。21年後に再巡礼すると、白樺は右側だけになっていたが、幹は太くなり、墓の頭上で青々とした枝葉を繁らせていた。墓地の中を風が吹き抜け、風にそよぐ葉擦れをクリムトが静かに楽しんでいるように見えた。
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1967年大阪府生まれ。文芸研究家にして「墓マイラー」の名付け親。ゴッホ、ベートーヴェン、チャップリンほか101ヵ国2,520人に墓参している。信念は「人間は民族や文化が違っても相違点より共通点の方がはるかに多い」。
日本経済新聞、音楽の友、月刊石材などで執筆活動を行う。最新刊は「墓マイラー・カジポンの世界音楽家巡礼記」(音楽之友社)、NHKラジオ深夜便「深夜便ぶんか部 世界偉人伝」にレギュラーゲストとして出演中。コロナ禍になってからは海外の墓参は休止に。札幌のバーンスタイン像にリアル巡礼する日を楽しみにしているという。
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