|
|
ハイビジョン映像で来年3月まで無料配信!
PMFオン・デマンド(デジタルコンテンツ)
|
コンサートの模様を映像や音源で紹介するPMFオン・デマンド。教授陣のリクエストで9月30日に公開となった「PMFファカルティ・デジタルコンサート」に続き、10月15日からは「PMF2021オープニング・コンサート」がラインナップに加わりました。
配信期間は2022年3月31日まで。日本・ヨーロッパ・アメリカで行われたPMF2021のライブ演奏を無料で何度でもお楽しみください!
|
|
|
|
|
「人生に参拝!」は34年間で101ヵ国2,500人以上の偉人を墓参し、独自の活動と情熱で音楽家たちの人生を探求している、文芸研究家で墓マイラーのカジポン・マルコ・残月さんによる書き下ろしエッセイ。
第2回(秋)は、1985年に高校時代のカジポンさんが、大阪でバーンスタインの来日公演を聴いて、圧倒的な音楽体験に失神寸前に陥ったという交響曲の作曲家、グスタフ・マーラーの人生に参拝します!
|
|
主にウィーンで活躍した作曲家・指揮者、交響曲と歌曲の大家
|
「私の全生涯は大いなる望郷だった」。2021年はグスタフ・マーラーの没後110年。今やマーラーは大人気でコンサートはどこも満員。だが、彼は作曲家として望んだ成功を得ぬまま死を迎えた。
後期ロマン派交響曲の頂点を極め、20世紀の作曲家に多大な影響を与えたマーラーは、1860年にボヘミア(現チェコ)で生まれた。両親が営む居酒屋で幼い頃から様々な民謡に触れ、15歳のときにウィーン音楽院に進学。翌年作曲した《ピアノ四重奏曲》が学内で作曲部門と演奏部門の1等賞に輝いたが、卒業後は仕事がなく、食べていくために指揮を始める。世間は指揮者としてのマーラーを高く評価し、28歳でブダペスト王立歌劇場の芸術監督に就任。マーラーの指揮でモーツァルトの歌劇《ドン・ジョヴァンニ》を聴いた老ブラームスは感動し、「本物のドン・ジョヴァンニを聴くにはブダペストに行かねばならない」と称えた。
指揮活動と並行して《交響曲第1番(巨人)》を4年がかりで書きあげ初演にこぎつけたが、第1楽章だけでモーツァルトの交響曲1曲分の長さがあったことに聴衆は困惑、楽団員には難しすぎ、批評家にも不評で大失敗。「歩いていると皆が私を変人と思って避けた」。
マーラーは37歳で指揮者として最高の名誉となるウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)の芸術監督に上り詰める。彼の指揮するオペラは連日新聞で取り上げられ、皇帝に次ぐ有名人となった。マーラーは長いワーグナー作品をノーカットで上演するために尽力し、ウィーンを世界屈指のオペラの中心地に育て上げた。ユダヤ人でありながら、反ユダヤ主義のワーグナー作品を愛聴しており、「ワーグナーなんか聴いてたまるか」と吐き捨てるユダヤ人の知人に、こう肩をすくめた。「でも牛肉を食べても、人は牛にはならないでしょう?」。
1902年、マーラーは“ウィーンいちの美貌”といわれたアルマと、出会ってから4ヵ月で結婚した。マーラー41歳、アルマ22歳。アルマは“マーラーこそウィーン最高の音楽家”と確信し、求婚を受け入れた。彼は新婚生活の中で《交響曲第5番》を完成させ、美しい第4楽章のアダージェットを妻への恋文として書き、楽譜の表紙には「私の愛しいアルムシ(アルマの愛称)、私の勇気ある、そして忠実なる伴侶に」と記された。
マーラーは47歳で未曾有の大曲《交響曲第8番(千人の交響曲)》を書きあげ、「ここでは宇宙全体が歌い奏でる。それは人間の声ではなく、惑星と太陽の音楽なのだ」と精神的な充足を得たが、直後に長女が感染症により5歳で他界してしまう。不幸は続き、マーラーは心臓病を発症、社会的には欧州に反ユダヤ主義が広まり、差別的な音楽評論家たちの不当な攻撃が激化。嫌気がさしてウィーン国立歌劇場監督を辞任する。
|
|
オーストリア中部アッター湖畔の作曲小屋。ここで《交響曲第2番(復活)》が書かれた。現在はリゾート・キャンプ場のど真ん中にある。
|
その後、マーラーは米国のメトロポリタン歌劇場やニューヨーク・フィルで指揮台に立ち、49歳で魂の傑作《交響曲第9番》を完成させる。彼は自身の健康が急激に衰えていくのを感じ、死を恐れると同時に死に憧れ、やがて賛美するようになり、終楽章の最後の小節には「ersterbend(死に絶えるように)」と書き込んだ。自身の歌曲《亡き子をしのぶ歌》の旋律が引用されていることから、早逝した娘へのレクイエムともいえる。この曲を聴いたシェーンベルクは「第9番は創造活動の極限であり、そこを越えようとする者は、死ぬ他はない」と語り、声楽家トーマス・ハンプソンは「人間の限られた時間の消滅を最も見事に表現した作品。終楽章では人生の時を刻むような一定のリズムから解き放たれ、大気の一部となるのです」と感嘆した。
アルマは献身ばかり求めるマーラーとの生活のストレスでアルコール依存症になり、療養施設で若い建築家グロピウスと恋に落ちる。マーラーは自らの非を認め、妻を失う不安から神経症になる。わずか3年の間に、最愛の娘を失い、心臓を病み、ウィーンを追われ、妻に裏切られ、悲しみの奥底に落ち込んでいった。
1911年5月18日、マーラーは敗血症により50歳で他界する。最期の言葉は「モーツァルトル!」(=モーツァルトの愛称形)。書きかけの《交響曲第10番》の楽譜には「お前(アルマ)のために生き、お前のために死ぬ!」という叫びにも似た書き込みがある。この曲の第1楽章アダージョを完成させ、マーラーは彼の音楽と共に消えた。
繊細な魂がむき出しになったようなマーラーの音楽。人生には「この曲と出会えただけで生まれて来た元をとった」と感じる音楽がいくつかある。《交響曲第9番》の終楽章はまさにそんな曲のひとつ。人はいつだって陽気で前向きなわけじゃない。マーラーの作品世界に漂う終末感や人生の徒労感が、“彼なら分かってくれる”と心の傷を癒す。高校時代、放課後の音楽室でマーラーの直弟子ワルター指揮の第9番を大ボリュームで聴き、全身を満たしたマーラーの生命の響きが35年を経た今も共振している。
マーラーにお礼を伝えるため、墓前を訪れたのは1994年、27歳のとき。クラシックの巨星が集まるウィーン中央墓地とは市の反対側に位置する、小さなグリンツィンク墓地に彼は眠る。マーラーは生前に自身の墓についてこう語っていた。「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」。墓石には生没年も肩書きもなく「GUSTAV MAHLER」という名前だけが刻まれている。「やがて私の時代が来る」と言ったマーラーに、「あなたの言った通りになりましたよ」とそっと伝えた。
|
|
ウィーンのマーラーの墓。作曲家の墓には楽譜が彫られたり、胸像が設置されたりすることが多いが、生没年さえないシンプルなもの。
|
|
1967年大阪府生まれ。文芸研究家にして「墓マイラー」の名付け親。ゴッホ、ベートーヴェン、チャップリンほか101ヵ国2,520人に墓参している。信念は「人間は民族や文化が違っても相違点より共通点の方がはるかに多い」。
日本経済新聞、音楽の友、月刊石材などで執筆活動を行う。最新刊は「墓マイラー・カジポンの世界音楽家巡礼記」(音楽之友社)、NHKラジオ深夜便「深夜便ぶんか部 世界偉人伝」にレギュラーゲストとして出演中。コロナ禍になってからは海外の墓参は休止に。札幌のバーンスタイン像にリアル巡礼する日を楽しみにしているという。
|
|
秋の夜長にゆっくりと。カジポンさんのロング・エッセイ
|
|
|
|
|
|
|
|
PMFにおける教育部門を指す言葉。
教育プログラムの内容によって「オーケストラ・アカデミー」「コンダクティング・アカデミー」「ヴォーカル・アカデミー」というように名称でグループ分けされる。
各部門で学ぶ音楽家は「アカデミー生」となるが、PMFでは「オーディションで選ばれた若手音楽家=アカデミー」の意味で使うことが多い。
また、クラシック音楽の世界では楽器名が音楽家のアイデンティティを表す大きな要素ということもあり、
『あのアカデミーの楽器は?』
『彼女はチェロです』
『もしもし、トランペットの〇〇ですが』
から会話が始まることも多い。
|
|
|
|
|
|