1791年、モーツァルト最後の年。夏頃、オペラ「魔笛」の作曲などで過労から健康を損ねていたモーツァルトのもとに、灰色の服をまとった謎の男が訪れて「レクイエム」の作曲を依頼した。男の正体はある音楽愛好家の貴族の使者だった。7月に第六子フランツが生まれる。夫婦は6人の子を授かったが、成年に達したのは第二子のカールとフランツだけだ。秋に「魔笛」が初演され、7歳のカールがオペラに興奮してはしゃいだ。宮廷楽長サリエリが観劇に訪れ、モーツァルトは妻に手紙を書く。『サリエリは心を込めて聴いてくれ、序曲から最後の合唱までブラボーやベロー(美しい)を言わない曲はなかった』。この手紙には『僕は家にいるのが一番好きだ』と記しており、妻への最後の恋文となった。
モーツァルトは病魔に冒され11月20日から2週間ベッドで寝込み、死の4時間前までペンを握り「レクイエム」の作曲を続けたが、第6曲「ラクリモサ(涙の日)」を8小節書いたところで力尽きた。12月5日午前0時55分永眠。その音楽の特徴である“歌うアレグロ”のように、35年の生涯を駆け抜けた。死を看取った妻の妹ゾフィーいわく『最後には口で「レクイエム」のティンパニの音を出そうとしていました。私の耳には今でもその音が聞こえます』。
翌日の葬儀では、一番安い第三等級の葬儀費用も手元になく、コンスタンツェは知人からお金を借りた。まだ生後5ヵ月の赤ん坊の世話もあり、彼女は心労で寝込んでしまい、葬儀には参列できなかった。午後6時、参列者約20人は当時ウィーンを守っていた市門まで歩き、そこで棺を乗せた荷馬車を見送った。そこからモーツァルトの亡骸は5キロの道のりを御者と旅し、ザンクト・マルクス墓地に到着した。モーツァルト家に墓を建てる余裕はなく、棺は葬儀屋と墓堀り人の手で墓地中央にある貧困者用の「第三等」共同墓地とされた“ただの穴”に運ばれ、棺から出されたモーツァルトの体は亜麻袋に入ったまま放り込まれた。この時、同じ穴に他の5人の遺体があったという。映画「アマデウス」にも彼の死体袋が貧民用の墓穴に無造作に投げ込まれ、伝染病防止の為に石灰をかけられるシーンが出てくる。
死から10年後、埋葬地は別用途で使うために掘り起こされ、その際にかつてモーツァルトを埋葬し、どの身体がモーツァルトかを知っていた墓掘り人が頭蓋骨(真偽論争中)を保存した。とにもかくにも、正確な埋葬場所は分からずとも、墓守の証言で候補地は特定されており、その場所に1859年にウィーン市の依頼を受けた彫刻家が制作した巨大墓碑が設置された。墓碑の上部には女性のブロンズ像があり、手には「レクイエム」の楽譜を持っている。台座の正面にはモーツァルトの横顔のレリーフがあり、側面には「ウィーン市の寄贈」と刻まれた。
“ウィーン市の寄贈”…何とも感慨深い言葉だ。モーツァルト存命中は芸術家が軽んじられ、約70年前にモーツァルトが貧困の中で死んだとき、当局からは何のサポートもなかった。それが今や、彫像付きの立派な墓碑を行政が用意したのだ。その後、没後100周年となる1891年、ザンクト・マルクス墓地の墓碑はブラームス、ヨハン・シュトラウスら大勢の有名作曲家が眠る中央墓地の名誉区に移設された。中央墓地にはこの3年前にベートーヴェンやシューベルトが改葬されており、“最後の大物”としてモーツァルトが加わった形だ。
ザンクト・マルクス墓地には地下のどこかにモーツァルトの身体があり、誰かが墓地に転がっていた石板にモーツァルトの名と生没年を彫って墓碑の代わりに置いた。その後、墓地の管理人が打ち捨てられていた天使の像を添え、さらに折れた円柱の墓石を積み上げて体裁を整えた。『今あるモーツァルトの墓碑は、すべてが“廃物利用”の墓碑である』(平田達治著『中欧・墓標をめぐる旅』)。
モーツァルトは注文に従って華やかな曲を多く書いたが、実生活は就職口を求めて何年も続いた過酷な旅、身分差別の屈辱、旅先での母の死、子ども4人に先立たれる悲劇、膨大な借金との戦いというもの。人生が辛い時に暗い曲を書くのは自然な心の動き。人生が苦しいのに明るい曲を書き続けたのは本当に凄い。モーツァルトはいかなる場合でも歌うことを忘れない。辛い時こそ笑顔。だからこそクラシック・ファンは彼の“陽気な曲”をこよなく愛し、今日もオーディオの電源を入れる。
『死は厳密に言えば、僕らの人生の真の最終目標ですから、数年来、僕は人間のこの真実の最上の友と非常に親しくなっています。その結果、死の姿は僕にとって、もはや恐ろしくないばかりか、大いに心を慰めてもくれます』(モーツァルト)
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