『今、運命が私をつかむ。やるならやってみよ運命よ!我々は自らを支配していない。始めから決定されていることは、そうなる他はない。さあ、そうなるがよい!そして私にできることは何か?運命以上のものになることだ!』(ベートーヴェン)
僕はかつて同じ人類の中にベートーヴェンがいたという1点をもって、人間が地球に誕生したことは無意味ではなかったと確信しており、『ダンケ・シェーン(ありがとう)』と感謝の言葉を伝えるためにウィーンの彼の墓を訪ねました。初対面は1989年、21歳のとき。それまでベートーヴェンは存在が偉大すぎて、何かもう人間ではなく、架空のヒーローのように感じていたのですが、墓石を見た瞬間、『ほんとに実在したんだ!』と胸が熱くなりました。彼も僕らと同様に、人生に悩み、喜び、生き抜いて、今は目の前に眠っている…それを全身で感じました。
この“本人に会った”感は、あまりに強烈な体験でした。墓石とはいえ、恩人に直接お礼を言える感動は何物にも代え難く、その後も人生の折々に足を運ぶようになり、これまで5回墓前に立っています。繰り返し墓参するのは、年齢を重ねるにつれ、彼と語りたいことが変わり、新たに良い楽曲と出会うと、その感想を伝えずにおられないからです。墓マイラーになる前は、スピーカーの前で『良い曲だなぁ』と思うだけで完結していたのですが、一度でもお墓に行ってしまうと、数年が経つと『感動のもらいっぱなしでは申し訳ない。もう何年も墓参していない、積もる話もあるのに…』と、もう頭の中は、“早くまた会いたい”という想いでいっぱいになります。まるで恋い焦がれている中高生のように…。
ベートーヴェンは1770年にドイツのボンで生まれ、10代前半から宮廷でオルガンを弾いていました。17歳で母親を病で亡くし、その後、父親がお酒に溺れて仕事を失ったため、まだ19歳の彼が一家の大黒柱となって家計を支え、2人の弟の面倒をみました。20歳の時に地元の貴族たちが『才能あるベートーヴェン君をウィーンにいるモーツァルトの弟子にしよう』という運動を展開し、ウィーンに出ることができました。ただ、残念ながら直前にモーツァルトが35歳で早逝したため、ハイドンや宮廷楽長サリエリなどから学びました。
彼はウィーンに出て間もなく、天才ピアニストとして大成功を収めました。即興演奏の名手として社交界の花形となり、30歳で「交響曲第1番」を初演、翌年にピアノソナタ「月光」を書くなど作曲家としても才能を発揮していきます。ところが、名声を得て得意絶頂の人生が突如暗転します。耳が聞こえなくなっていったのです。彼は難聴が知られると仕事がなくなると思って、他人と距離を置くようになります。どん底まで落ち込み、死ぬことまで考え、32歳のときに弟たちに宛てて「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる悲痛な文章を書きました。
《情熱に満ちた性格で、人付き合いが好きなこの私が、孤独に生きなければならない。人々に向かって『もっと大きな声で叫んで下さい、私は耳が聞こえないのです』なんて言えない。だから、私が引きこもる姿を見ても許して欲しい。耳の病気と、世捨て人のように誤解される不幸が、私を二重に苦しめる。人の輪に近づくと、耳のことを悟られてしまうのではないか、という心配が私をさいなむ。私は絶望し、あと一歩で自ら命を絶つところだった。私をこの世に引き止めたものは、ただひとつ“芸術”であった》
彼は死を考えている最中でも、次々とメロディーが浮かんできたため、それを出しきるまで、この世を去るわけにいかないと言うのです。そして、こう続きます。
《私はそれまでこのみじめな肉体を引きずって生きていく。耳の具合が良くならなくても覚悟はできている。自分を不幸と思っている人は、同じように不幸な者が、困難に耐え、価値ある人間になろうとして全力を尽くしたことを知って元気を出してほしい》
ここからのベートーヴェンは凄まじい創作力を発揮し、10年間に交響曲「英雄」「運命」「田園」、ピアノ協奏曲「皇帝」、歌劇 「フィデリオ」、ピアノソナタ「熱情」など、鬼神のごとく傑作を生み出し続けます。書いて書いて書きまくります。
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